日々で感じたことや、考えたことを日記のように書いていくブログです

マックの照り焼きソース、売ってたらいいのに。。。あったらあったで作ればいっかって買わないかもだけど

高校生の時は一年に一回訪れる自分の誕生日が大好きだった。高校生の時は0時になったら届くメッセージを見るために徹夜したり、両手いっぱいのプレゼント、廊下ですれ違う人からおめでとうと言ってもらえたり。誕生日はこんなに幸せな日なんだ、みんな優しくて私は本当に幸せだなと悦に浸ってみたり。

 

だけど卒業してからだんだんと少なくなり、今年は0時に来たメッセージは0個だった。起きてから少ししたら、LINEやインスタ、Twitterでメッセージや電話が来た。

 

高校卒業するまで誕生日は一年で一番ワクワクする日だった。だけど、卒業してからはだんだん、今年は誰からもメッセージ来ないかもしれないと少し不安になるようになった。

かといって自分は中学校、高校の頃の友達みんなに送っているかと言われたらそうではない。自分は送っていないのに、どうして自分には送ってもらえると勘違いしてしまったのだろう。

 

別に0時に送ってもらえるからといって特別な何かになれるわけではないし、日中に送ってもらえることも、0時ではないからと価値が下がるわけでもない。だけどなぜかそんな存在でいれることが何かのステータスのように感じていたのだと思う。0時に送ってくれる特定の誰かを求めていたのではなく、0時にたくさんのメッセージをもらえる自分を求めていた。友達がたくさんいる自分に無意識に憧れて、そんな自分でいることが何よりも大切なことだって思ってた。

 

今思い返すと、高校3年間、友達の多い私でいることに必死だったと思う。だから広く浅くの友達が多かったんだろう。当時、お互いに長文のメッセージを送り合っていた日常も過去の思い出だ。

 

もちろん今でも連絡してくれる深い友達もいる。高校卒業してから少し経ってから、一時期、LINEを消してインスタのDMの返信もしていなかった。心配させるかもしれないと思ったけれど、充実しているみんなと自分を比べて虚しくなるのがいやだったから。繋がりを消してしまおうと友達と距離を置いた。みんな充実してるように見えてもそれぞれたくさんの悩みがあったり、辛いこととかあるって今ではわかるけど、その頃は自分だけが世界で一人ぼっちでみんなに置いていかれたって感じてた。

 

それから、約1年後にもう一度みんなと繋がって、電話したり、遊んだりしたけど、その時にはもう昔あったと思っていた絆みたいなのはやっぱり細くなっていた。みんな、やっぱり優しくて、面白くて、大切な存在であることに変わらなかった。だけど、やはり一度できた距離はそう簡単に縮まらない。自分でそうしてしまったのに、実感するとやはり悲しかった。

 

高校生の時は永遠にみんなと友達でいられると思ってたし、会いたいって言ったらみんなですぐに集まれて、たわいもないことで笑い合えたりできるんだろうなって漠然と思ってた。だけど、それぞれが大学に行って、新しい生活で、新しい友達ができていくと、少しずつ、疎遠になる。だからこそ今でも連絡してくれる友達を大切にしないといけないなと思う。その存在を当たり前だって思ってしまうと、いつでも会える、いつでも伝えられる。そう感じてしまう。だけど実際はそうではないって、ここ数年で実感してきたから、最近は伝えたいと思ったら、伝えるようにしている。あまりしすぎると、かえって心配させてしまうかもしれないから、少しずつだけど。

 

青春とか絆とか、そういう目に見えないものは自分の元から消えてしまった時にやっとそれが存在してたって気づけるものなんだなと、最近になってわかった。

 

そして、そういうものはなければ欲しくなるし、あればもう充分だと感じる。ないものねだりというのは人間の本質を一番うまく表現した言葉なんじゃないかと思う。

 

一見、誰から見ても成功したスーパースターは『普通』の生活を夢見て、そのいわゆる『普通』の生活をしている人はスーパースターになることを夢見る。お互いその部分のいい部分しか見えていないから。誰かにとっての日常は、別の誰かにとっての特別かもしれないし、もちろんその逆の、誰かの特別は誰かの当たり前かもしれない。

 

例えば、家に帰れば毎日、親が作った美味しいご飯を待っている子は、たまに食べるジャンクフードを特別に感じるかもしれないし、日常生活に手料理がほとんど存在していなかった子は、他人がが自分のために作ってくれた手料理というものは心に染みる特別なものだと感じるかもしれない。

 

そうやって頭で考えてみると、他人を羨んでばかりいる自分の人生だって捨てたもんじゃないって思える。いや、むしろ自分しか経験できないこの自分の人生にすごい価値があるように感じてくる。

 

人と比べることは人生において無駄な行動であるってわかっていても無意識でしてしまう。私はよくいろんなことをネットで検索する。自分で決めれるはずの小さなことでも間違えの選択してしまうことが怖いから、無難な選択肢を探す。外食するときもいろんなサイトの口コミを調べまくる。ふら〜っととお店にはいって食べるご飯も自分で見つけた宝物みたいで絶対に楽しいってわかっているけど、お金と時間を無駄にしたくないって強く思いすぎて人の評価ばかり気にしてしまうんだと思う。その人にとっては美味しくない料理だとしても自分にとっては最高の料理かもしれないのに。

 

そうわかってはいるけど、やっぱり失敗するのが怖いから私は外食する時いつも挑戦できない。それがダメだってわけじゃない。だって、美味しいものは何度食べても美味しいから。新メニューよりもいつも頼むものを頼んでしまう。マックだとサムライマックの炙り醤油風ダブル肉厚ビーフかてりやきチキンフィレオ。てりたまも美味しそうだなと思うけど頼んだことない。だけど期間限定商品だった赤いガーリックてりやきに挑戦した時、美味しすぎてびっくりした。そしてその時初めて、テリヤキバーガーは豚肉でできてるって知った。もっと早く頼んでみてたらよかったって後悔した。

 

マックのてりやきソースって最高に美味しい!本当に美味しい。あのソースを売り出して欲しい。再現レシピ見て作ってみたけどやっぱり違う。

 

何の話してるのか分からなくなってきたから、ここら辺で終わろうっと。

誰もいないかもしれないけど笑。ここまで読んでくれた方ありがとうございました。

自分のこの人生を卑下するのも大切に自分だけのアレンジを効かせて積み上げていけるのもどちらも自分だけ。

もっと楽しんでみようと思います。

 

前回もエッセイ本紹介したから、今回も。

ハ・ワンさんの『危うく一生懸命生きるところだった』

カバーのイラスト見てちょっと斬新だなって思って買ってみたこの本。

 

これはみんなと同じふうに生きていかないといけないって思うのに疲れたとき、自分のためだけに生きていきたくなったとき、そっと隣にいてくれる、そんな本です。