日々で感じたことや、考えたことを日記のように書いていくブログです

上手に説明できるようになる練習方法、何かないかな。

この前、友達と飲みに行った帰りに、起こった出来事を何度も思い出してしまう。

 

日頃はお酒を飲まないから、気分も良くて帰ってた時、突然「すいません」と話しかけられて道に迷った人かなと思って話を聞こうとすると小さなパウチされた紙を渡された。

その時はまだ行きたい場所がここに書いてあるのかな〜ぐらいしか思ってなかったんだけど、そこに書いていたのは、

「わたしは留学生の〇〇です。おかねがなくてがっこうを退学させられました。このおかしを買ってください。たすけてください。1つ 500円 2つ 1000円」

 

一言一句同じわけじゃないけど、こんな感じだったと思う。友達がすみませんと断っていて、私も何か少し不思議な感じがしたから、断った。すると、悲しそうな顔でわかりましたと言って、俯きながら私たちが来た方に向かって歩いて行った。そっちにはたむろしてる人たちがいたから、からかわれたりしないかなと振り返ったけど、そんな表面上の心配だけをしてる自分がいやでそれからは振り返らなかった。

 

そこからしばらく歩いた後にやっぱり戻ろうかとも考えた。家に着いた後も胸に引っかかったまま、どうするのが正しかったのかと考えた。だけど、その引っかかっていた何かが完全にではないけど、なくなる出来事も起こった。

 

それから、二日後にお母さんと出かけて、それと近い場所を通った時、おんなじことが起こったからだ。お母さんにもその話をしていたから、お母さんも戸惑ったりしなかった。

 

同じようなお菓子の詰め合わせの入った紙袋と小さな手書きの紙を持って、同じようにすみませんと声をかけてきた。そこにはまた同じように悲しそうな、すがる顔をした女の人がいて、あの罪悪感にも似た気持ちを思い出すのが嫌でまたすみませんと言って私がお母さんの手を引いて、足早に通り過ぎた。だから、その時は紙の文章も初めの「わたしは〇〇です。」しか読めなかった。いや、読まなかった。

 

通り過ぎて少し経ってから、お母さんに一昨日もこんな感じだったんだよ。やっぱり買ってあげたほうがよかったかな?って聞いたら、「あなたがしたいと思うならしたほうがよかったかもね。後悔してしまうなら。」と言われた。お母さんなら渡したの?と聞くと、どうだろうね。渡すだけしたかもしれないね。申し訳ないけど、怖いから食べずに捨ててしまうけどって言ってた。

 

その胸の引っ掛かりが消えたのは家に帰って、検索した時。

 

私に後ろめたさや罪悪感を与えたこの出来事は、私が住んでいる地域だけではなく、全国的に起こっている詐欺だということだった。最近始まったことでもなく、数年前から。もしかしたら新聞とかニュースとか、見てたら、気づけたのかもしれない。

その事実を知った時、沸々と怒りが湧いてきたのがわかった。

人の良心を利用して、騙す。なんでそんなことをするんだろう。

 

でも良く考えると私も、お母さんも友達も実際には買っていないから、詐欺られたわけではない。ただ、考えなくてもいいことを考えて、しなくてもいいはずだった自己嫌悪をして、うん、そうだ。ただ無駄なことに時間を少し使ってしまっただけ。ただそれだけ。

 

あの女の人達もしたくて、あんなことをしているわけではなくて、強制されてしているのかもしれないし。全国的に行われているのならバックにそれを考えた人たちがいるんだろうし、あの人たちも被害者なのかもしれない。

 

ああ、やっぱり考えすぎてしまう。今日寒いけど、今日もあそこに立っているのかなとか。

 

っていうか、悲しいというかなんていうか、断られた後の表情がリアルすぎた。あんなに演技が上手なら、何か違うことに活かせたらいいのに。演技じゃない可能性も0.002%くらいはあると思うけど。

 

あと、あのお菓子の詰め合わせって儲かるのかな?よくみるお菓子だったし、私も何度も食べたことあるものばかりだった。いやでも、手作りお菓子とか、どこの国かもわからなくて材料表記もない海外のお菓子とか、そういうのじゃなくてよかった。買った人は絶対いると思うから。

 

まあ、何はともあれ、あの女性がお金がなくて退学させられた可能性がほぼゼロに近くなっただけでもよかったと安心するべきなんだろうな。うん、そういうことにしよう。

 

そうだ。あの日はご飯もお酒も美味しかった。少し肌寒かったけど、月も綺麗だった。あ、マックの三角チョコパイもやっと買えたし。三角チョコパイは毎年食べるわけじゃないんだけど、やっぱり見ると食べたくなる。いちごカスタードと黒を半分ずつ食べたんだけど、いちごカスタードの方が美味しかった。だからいい日だった。うん。

 

まあ、どうせ、二週間後には覚えていない。そして、何ヶ月、何年後かも、その頃に思い出すかもしれないけど、その時もそう思い込もう。それでなんか、美味しいものを食べて忘れよう。こうして、見て見ぬふりを繰り返していくんだろうな。

 

急に違う話になるけど、最近何かで見かけたんだけど、エクスプレッシブ・ライティングという方法があるそうだ。

モヤモヤしたことや、辛かったこと、途切れることのない不安、それらを書き出してみると、自分を客観的に捉えること、自分と向き合いうことで、精神の安定や免疫力の向上が期待できるというもの。

このブログ(=日記)もそういう役割を私の中で担えているのかも。

 

 

いつも最後に本を紹介してきたから、今日も本を一冊紹介しようと思う。

マサト真希さんの『アヤンナの美しい鳥』

 

この本は、中学生の頃に買った本で、なんで買ったのかは覚えていないけど、多分、ほんのカバーの裏表紙に書いてある紹介文を見て買ったんだったと思う。

 

 

「僕のすべてが、君のものだ」

わたしはアヤンナ。醜い娘。

 

「おまえのような娘を妻にする男はいないよ。市場で夫を買ってこなきゃなるまいね」

亡き祖母はわたしに向かってよくこういったものだ。

だからいまでも私は市場が大嫌い。家畜を買うように夫を買わなければ、だれも愛してくれないほど醜いといわれたことを思い出すから。

けれど、魔女のわたしが見つけた美しいひとは、奴隷市場で出会った”彼”だったーーー。

醜い魔女の娘と美しい奴隷の王子。瓦解する帝国の辺境で二人は数多の物語を紡ぐ。

                          

              『アヤンナの美しい鳥』 ーマサト真希

               メディアワークス文庫   裏表紙のあらすじより

 

 

 

 

中学生が読むには少し早かったんじゃないかと今では思う。

今読み直してみると、昔とは感じ方が違った。

 

物語の流れだけではなく、至る所になんていうか考えられさせられる描写があった。

人はなんて、脆く、醜く、美しく、そして力強い心を持っているのかと思った。

これを読んだからといって、心が軽くなるとか、前向きになれるとかそういう話ではないし、幸せな気持ちになれるハッピーエンドでもない。

ただ、人生はドラマみたいに綺麗事ばかりじゃなくて、やはりみんな生きるために足掻いている。

それだけじゃ正当化できない行動も確かに存在する。だけど、やっぱりみんな自分を守るために必死なんだと。そんな当たり前のことを再認識できる物語。

 

 

私は説明するのが下手だから、こんな感じしか説明できないな。

説明するのが上手になりたい。伝えたいことを相手に理解してもらえるように、なりたい。

 

ここまで読んでくださった方、ありがとうございました!

マックの照り焼きソース、売ってたらいいのに。。。あったらあったで作ればいっかって買わないかもだけど

高校生の時は一年に一回訪れる自分の誕生日が大好きだった。高校生の時は0時になったら届くメッセージを見るために徹夜したり、両手いっぱいのプレゼント、廊下ですれ違う人からおめでとうと言ってもらえたり。誕生日はこんなに幸せな日なんだ、みんな優しくて私は本当に幸せだなと悦に浸ってみたり。

 

だけど卒業してからだんだんと少なくなり、今年は0時に来たメッセージは0個だった。起きてから少ししたら、LINEやインスタ、Twitterでメッセージや電話が来た。

 

高校卒業するまで誕生日は一年で一番ワクワクする日だった。だけど、卒業してからはだんだん、今年は誰からもメッセージ来ないかもしれないと少し不安になるようになった。

かといって自分は中学校、高校の頃の友達みんなに送っているかと言われたらそうではない。自分は送っていないのに、どうして自分には送ってもらえると勘違いしてしまったのだろう。

 

別に0時に送ってもらえるからといって特別な何かになれるわけではないし、日中に送ってもらえることも、0時ではないからと価値が下がるわけでもない。だけどなぜかそんな存在でいれることが何かのステータスのように感じていたのだと思う。0時に送ってくれる特定の誰かを求めていたのではなく、0時にたくさんのメッセージをもらえる自分を求めていた。友達がたくさんいる自分に無意識に憧れて、そんな自分でいることが何よりも大切なことだって思ってた。

 

今思い返すと、高校3年間、友達の多い私でいることに必死だったと思う。だから広く浅くの友達が多かったんだろう。当時、お互いに長文のメッセージを送り合っていた日常も過去の思い出だ。

 

もちろん今でも連絡してくれる深い友達もいる。高校卒業してから少し経ってから、一時期、LINEを消してインスタのDMの返信もしていなかった。心配させるかもしれないと思ったけれど、充実しているみんなと自分を比べて虚しくなるのがいやだったから。繋がりを消してしまおうと友達と距離を置いた。みんな充実してるように見えてもそれぞれたくさんの悩みがあったり、辛いこととかあるって今ではわかるけど、その頃は自分だけが世界で一人ぼっちでみんなに置いていかれたって感じてた。

 

それから、約1年後にもう一度みんなと繋がって、電話したり、遊んだりしたけど、その時にはもう昔あったと思っていた絆みたいなのはやっぱり細くなっていた。みんな、やっぱり優しくて、面白くて、大切な存在であることに変わらなかった。だけど、やはり一度できた距離はそう簡単に縮まらない。自分でそうしてしまったのに、実感するとやはり悲しかった。

 

高校生の時は永遠にみんなと友達でいられると思ってたし、会いたいって言ったらみんなですぐに集まれて、たわいもないことで笑い合えたりできるんだろうなって漠然と思ってた。だけど、それぞれが大学に行って、新しい生活で、新しい友達ができていくと、少しずつ、疎遠になる。だからこそ今でも連絡してくれる友達を大切にしないといけないなと思う。その存在を当たり前だって思ってしまうと、いつでも会える、いつでも伝えられる。そう感じてしまう。だけど実際はそうではないって、ここ数年で実感してきたから、最近は伝えたいと思ったら、伝えるようにしている。あまりしすぎると、かえって心配させてしまうかもしれないから、少しずつだけど。

 

青春とか絆とか、そういう目に見えないものは自分の元から消えてしまった時にやっとそれが存在してたって気づけるものなんだなと、最近になってわかった。

 

そして、そういうものはなければ欲しくなるし、あればもう充分だと感じる。ないものねだりというのは人間の本質を一番うまく表現した言葉なんじゃないかと思う。

 

一見、誰から見ても成功したスーパースターは『普通』の生活を夢見て、そのいわゆる『普通』の生活をしている人はスーパースターになることを夢見る。お互いその部分のいい部分しか見えていないから。誰かにとっての日常は、別の誰かにとっての特別かもしれないし、もちろんその逆の、誰かの特別は誰かの当たり前かもしれない。

 

例えば、家に帰れば毎日、親が作った美味しいご飯を待っている子は、たまに食べるジャンクフードを特別に感じるかもしれないし、日常生活に手料理がほとんど存在していなかった子は、他人がが自分のために作ってくれた手料理というものは心に染みる特別なものだと感じるかもしれない。

 

そうやって頭で考えてみると、他人を羨んでばかりいる自分の人生だって捨てたもんじゃないって思える。いや、むしろ自分しか経験できないこの自分の人生にすごい価値があるように感じてくる。

 

人と比べることは人生において無駄な行動であるってわかっていても無意識でしてしまう。私はよくいろんなことをネットで検索する。自分で決めれるはずの小さなことでも間違えの選択してしまうことが怖いから、無難な選択肢を探す。外食するときもいろんなサイトの口コミを調べまくる。ふら〜っととお店にはいって食べるご飯も自分で見つけた宝物みたいで絶対に楽しいってわかっているけど、お金と時間を無駄にしたくないって強く思いすぎて人の評価ばかり気にしてしまうんだと思う。その人にとっては美味しくない料理だとしても自分にとっては最高の料理かもしれないのに。

 

そうわかってはいるけど、やっぱり失敗するのが怖いから私は外食する時いつも挑戦できない。それがダメだってわけじゃない。だって、美味しいものは何度食べても美味しいから。新メニューよりもいつも頼むものを頼んでしまう。マックだとサムライマックの炙り醤油風ダブル肉厚ビーフかてりやきチキンフィレオ。てりたまも美味しそうだなと思うけど頼んだことない。だけど期間限定商品だった赤いガーリックてりやきに挑戦した時、美味しすぎてびっくりした。そしてその時初めて、テリヤキバーガーは豚肉でできてるって知った。もっと早く頼んでみてたらよかったって後悔した。

 

マックのてりやきソースって最高に美味しい!本当に美味しい。あのソースを売り出して欲しい。再現レシピ見て作ってみたけどやっぱり違う。

 

何の話してるのか分からなくなってきたから、ここら辺で終わろうっと。

誰もいないかもしれないけど笑。ここまで読んでくれた方ありがとうございました。

自分のこの人生を卑下するのも大切に自分だけのアレンジを効かせて積み上げていけるのもどちらも自分だけ。

もっと楽しんでみようと思います。

 

前回もエッセイ本紹介したから、今回も。

ハ・ワンさんの『危うく一生懸命生きるところだった』

カバーのイラスト見てちょっと斬新だなって思って買ってみたこの本。

 

これはみんなと同じふうに生きていかないといけないって思うのに疲れたとき、自分のためだけに生きていきたくなったとき、そっと隣にいてくれる、そんな本です。

 

私はまさに『ほっといて欲しいけど、ひとりはいや。』

初めてこういった文章を書きます。だから難しいことは一旦考えずに書きたいこと、心の中にある言葉を綴ってみようと思う。簡単そうだと思ったけど、語尾とか、接続詞とか書いてみると難しい。読み直してみると、こっちの方がいいかもという試行錯誤を繰り返して、結局一番初めに書いた文章に戻ってしまう。

 

 

面白いことや、目を引くことは書けないので、誰にも気づかれずひっそりと続けていく。日記のようにしてみる。

 

 

まず何を書こう。うーんまず、自己紹介とかが必要かもだけど特に変わった経歴もないので、ただ自分で自分を分析してみる。

私はとても欲望の多い人間だと思う。そして見栄っ張りで、周りからの影響も受けやすい。そしてあきやすい。(日記かも?)を書いてみたいと思ったのも、韓国エッセイにハマったからだ。初めて読んだのは、「ほっといて欲しいけど、ひとりはいや」という本だった。

ハッとした。いやびっくりしたという方がこの場合正しいかも。これほどまでに私の心情をあらわしてくれる言葉に出会ったのは初めてだった。ほっといて欲しいけど、一人になるのはいや。ううん、私はひとりだと思われるのが嫌。誰かに今、あの人何してるんだろうと思われるのも嫌だ。だけど考えられるのは嫌だ。嫌だって思うだけで自分を変える努力はしない。

次に私はマイペースだ、多分。人によく言われるから。天然だともよく言われる。マイペースとは人よりテンポが遅いという意味で使われる言葉。ひとよりずれている、遅い。だからどちらかというとマイナスの意味な気がする。

私も人にマイペースだねと言ったことがある。その時は、マイペースで可愛いと思って気持ちで発した言葉だったと思う。でも言われたあの子はどういう捉え方をしただろう。とろいとか、そういう意味で捉えてしまってたかな。そうじゃないといいな。これ以外にも今までの人生の中で人のことを傷つける言葉をたくさん口にしてきたと思う。思うじゃなくてしてきた、確実に。そんな出来事のことだれの記憶の片隅にも残っていないといいな。都合のいい考え方すぎるか。

悪意を持ってなくても自分が思っていない意味で傷つけてしまう。マイペースは本来はどういう意味だったのだろう。天然は間抜けだとか、変わっているとか、そう言う意味でみんな使うのかな。

そして、マイペースは直訳すれば、自分のペース。人に惑わされず、自分をしっかりと保つことができる。こんな意味だと、ぐんとかっこよくなる。捉え方によって変わる言葉なら、自分の好みでカスタマイズしてしまえばいい。こう言葉にするだけならこんなにも簡単なのに、実際行うのは難しい。言葉は本当に難しい。難しいと思えば思うほど難しく、より複雑になったように感じる。この言葉を相手はどう捉えるだろう。自分は好意的で言ったこの言葉を相手は悪い意味で捉えてしまうかもしれない。そう一度考えてしまうと言葉を伝えるのも怖くなる。

たとえ応援のメッセージだとしても、どんなポジティブな場面での言葉だとしても、その言葉を何度も考えて、考えて、結局はこの言葉を自分が言う必要があるのか、伝える資格があるのかという結論に辿り着く。

だけどそうやって自分を卑下し続けるのも辛くて、まあいっかと思ってしまう。まあいっかと思うことで、やるせない気持ちを隠して、自分に落胆しないために、逃げ道を作る。元々は割とおしゃべりだったけど、深く考えれば考えるほど、だんだん無口になっていった。話をするのがめんどくさいわけじゃない。人と話すのは好きな方だけど、相手の気持ちを想像して考えるのに疲れてしまって、無気力になっていく。

ゲームみたいに、この言葉はどう捉えられるかわかるコマンドみたいなのがあればいいのに。

英語のオンライン語学学校に通った時、グループに分かれて議論をする時間があった。みんなで協力して、問題を解くと言う時間だった。初めの頃は張り切って、私はこう思うと拙い英語で一生懸命伝えた。だけど、発音が原因でうまく伝わらなかったり、言いたい言葉がうまく伝えられなかったりして誰も私に質問しないでくれと思うようになった。みんなもはじめは意味を理解しようと聞いてくれる。だけど、だんだんまたあの子か、みたいな表情になっていったように感じた。これは本当にみんながそう言う表情だったわけではなく、自分が自分を守るためにそう思い込んでいただけかもしれない。

みんなの時間を無駄にしてしまうのも申し訳ないとそれを免罪符にして、自分が話すのが怖いのではなく、みんなの時間が大事だから、自分の英語力がみんなに比べて劣っていることから目を逸らすためではなく、みんなも私の英語を理解しようとするのは疲れるだろうなと勝手に自分を守るための壁にした。勝手に心の中でクラスメイトを悪者に仕立てた。自分は話してみたいけど、みんなに面倒くさいと思われていると。実際はそんなことはなかったのに。連絡先を交換しようと言ってくれたり、交換した後にチャットや電話で話したり、留学先では一緒に遊びに行こうと誘ってくれたり、私が伝えたいことを汲み取ってみんなに伝えてくれたり。もちろん当たり前だけど、全員が全員じゃない。質問しても一言も返事してくれなかったり、私が話した後に、「What!?!?!」と顔をしかめながら言われたり。その日はだいぶ落ち込んで泣きそうだった。次の日の授業で彼女とまた同じグループになって、怖くてまた泣きそうになった。

私は考えすぎる、気にしすぎる性格だ。高校生の時、それが原因で友達と何度かギクシャクした。その子はそれが〇〇の性格だって知っているから大丈夫。だと何度も言ってくれた。だけどその度に私はどうしてこんなに気にしすぎる性格なんだろうと落ち込みもした。

そういうこともあるさ〜大丈夫さとゆるく考えられるようになることが今の目標。こう考えている時点で達成までの道は大変そう。

 

初めてのブログ(=日記)はここまでにしよう。

ここまで読んでくださりありがとうございます。

 

最後におすすめの本を置いておきます。

 

 

こちらが先ほど出てきたエッセイ。

ダンシングスネイルさんの

『ほっといて欲しいけど、ひとりはいや』

人間関係に疲れてしまった、自分を大切にゆったりと前向きな気分になりたい方へ。